日刊紙「信用情報」で人気のコラムをお届けします

ひぐらしの季節 No.939

「ひぐらしの鳴きやんでより青き闇」(秋山百合子)。セミは夏の季語だが、蜩(ひぐらし)は初秋である。盆が過ぎ、カナカナというさびしげな鳴き声が聞こえれば、秋はそう遠くない。日が暮れる頃に鳴くから、「日を暮れさせるもの」と“ヒグラシ”の名がついた。実際は梅雨の頃からずっと鳴いていたのだが、騒がしいクマゼミやミンミンゼミの声に隠れていたのか。正岡子規は「蜩や一日一日をなきへらす」、高浜虚子は「人の世の悲し悲しと蜩が」という句を詠んだ。

2025年には3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という超高齢社会に突入する。高度成長時代が日本の盛夏なら、今やヒグラシが鳴く季節かもしれない。若者時代に大きな市場を作ってマーケティングのターゲットになってきた団塊世代も、75歳を迎えようとしている。歌人の小高賢氏は『老いの歌』(岩波新書)で、「時代や社会は人生の例外的な時間として老いを避け、排除し隔離してきた。よくわからない存在だからである」と、老いに対する考察不足を指摘する。「『お母さんに会ひたい』と泣く真夜中の母を泣きやむまでさすりをる」(安立スハル)には、急速に衰えた肉親への驚きがある。娘であっても、老いた母の心情にはなかなか近づけない。誰もが年を取り、やがて死を迎える。自身の老いに戸惑う人も多い。老いの在り方も様々だが、そうした老いの研究はさほど進んでいないのではなかろうか。

「ふり向けば空席のみが増えてゆく最終バスのわれは乗客」。2・26事件をテーマにした句も詠んだ女流歌人の斎藤史は1909年(明治42年)に生まれ、2002年(平成14年)に93年の生涯を閉じた。この句は、年々知人がいなくなるという老いの日常を詠ったものだ。ほかにも斎藤は晩年に「携帯電話持たず終わらむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか」というエネルギッシュな句を読んでいる。「ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉(あさげ)とし何で残生が美しかろう」という句では、ひとり暮らしの「朝食をぐじやぐじやのおじや」で済ます現実を受け入れながら、ここにも老いに向き合い、生きるとはこういうことだという覚悟を込めている。

老いるということは、寂しくて悲しいばかりではない。「老いは特別なものではない。外部の目が特別なものに囲い込んでいるにすぎない」と小高氏。高齢者へのマーケティングの難しさはこの辺りにあるのではないか。