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福袋 No.899

初売りといえば、毎年、福袋を買うという人も多いだろう。今年も初売りの当日、朝早くから百貨店の前に並ぶ人たちの様子をニュースが伝えていた。

福袋がいつから始まったのか諸説あるようだが、江戸時代に福袋の原型の「恵比寿袋」を日本橋の呉服店「越後屋」(現三越)が販売を始めたといわれており、「大丸呉服店」(現大丸)も1年の間にたまった端切れを袋に入れて販売していたという記録が残っている。また、明治40年(1907年)に「鶴屋呉服店」(現松屋)、同44年(1911年)に「いとう呉服店」(現松坂屋)が福袋を販売して評判になったようで、これが始まりという説もある。一般的になったのは昭和以降で、全国の百貨店で販売されるようになり、お正月の目玉商品として人気を呼ぶようになって現在に至っている。

もともと「福袋」とは、七福神の福の神として有名な大黒天が抱えている大きな袋のこと。この中に入っているのは幸運や幸福で、大黒天が袋から福を分け与えてくれると言われており、これがお正月に売られる福袋の由来となっている。

福袋は、バブル期には高価な宝飾品が入ったものや数億円といったモノも登場するなど、時代によって変遷してきた。インターネット全盛のいま、事前にネット予約して購入するシステムも出てくるなど、ますます多様化している。もちろん百貨店でも、年末近くになると予約がはじまり、福袋の中にはこんなのが入っていますよ、と親切に画像入りで教えてくれる。何が入っているかわかっている福袋を買うのは楽しみが半減してしまうのでは?と思ってしまうが、考えてみればネットで情報が簡単に入ってくる現在、どんなモノが入っているかわからずに買っている人の方が少ないのかもしれない。

最近は、事前にしっかりリサーチして、実際の販売価格より合計額が大きく上回り、かつ使えるイイモノが入っている福袋を選ぶのが当たり前で、事前予約するのはもちろんのこと、店頭販売の場合は何時頃から並べば手に入るかを見極めゲットするものとなっている。実際、食料品やコスメなど日用品の福袋も多くなっており、欲しいモノをお得に手に入れるきわめて現実的なお買い物としての利用が増えている。

運試しではなく、事前の調査が福を呼ぶというのでは、大黒天から福を分けてもらう夢とはずいぶんかけ離れてしまったが、それが今の時代を映しているのだろうか。

「はれのひ」から一年 No.900

昨年の成人式の当日に突然店を閉め、2千人を超える新成人が成人式に晴れ着を着ることができなくなった「はれのひ」事件。当時、メディアはこの事件の背景にはきもの業界の構造や体質があると指摘した。「きものビジネスの闇(ダイヤモンド・オンライン)」「振り袖被害拡大、背景に少子化、客の取り合い(読売新聞)」「商慣行の見直し不可欠(日本経済新聞)」。あれから一年、果たしてきものビジネスの闇は晴れ、振袖被害を二度と起こさない取り組みは進んだのか。その問題の根っこにある商慣行の見直しはできたのだろうか?

同社は、倒産に至る一年以上前から信用不安の噂が流れていた。火のない所に煙はたたぬというが、どうやら商品手当てに対する支払いができていなかったようだ。同社の破産申立書には「平成29年4月以降は支払いが滞った問屋からは仕入れができなくなり~」とある。この時点で金融機関からの新規融資は断られ、リスケの実行へと移っている。支払いができず、商品手当てもままならない時点で、企業存続は絶望的だ。

それなのに延命できた理由は、きもの業界の支払方法にある。契約書がない、商品委託がある、半年を越える長い手形が発行される、延べ勘という名の決済の先送りも行われている。これらのルーズな商慣行がまかり通る業界だから「はれのひ」は延命できた。支払いルールがしっかりしていれば、営業を続けられなかっただろう。

これによって何が起きたかといえば、その間も一般の被害者が増え続けたのだ。金融機関は融資をやめ、一部の納入先は商品取引を中止し、あるいはファクタリングでリスクヘッジするなか、一般消費者にはそれらの情報は一切伝わらず、「はれのひ」と契約した人たちは前払いをしていたのだ。まさか、そのお金が企業の延命資金に使われるとは知る由もなく――。

業界の特殊な商慣行が「はれのひ」の被害者を増やしたといえよう。このような慣行を改めなければ、消費者を取り巻く状況は一年前と変わらない。「安心してください」と発信したところで、信用などしてくれないだろう。

あの忌まわしき事件から一年。業界は事件を受けて何をどのように改善し、安心を担保したのか。それをお客様の目に見える形で示すことができてこそ、きもの業界の信頼回復につながるはずだ。

失敗を糧に No.901

レスリング女子でオリンピック3連覇を果たし、世界選手権で史上最多の13連覇を達成した吉田沙保里が8日、現役引退を発表した。記者会見で最も印象に残っている試合を問われ、決勝で敗れたリオ五輪を挙げた。「初めて2番目の表彰台に上がった時に、負けた人ってこんな感じなんだなと知りました。負けて得るもの、負けて知るものということはすごく大きかった。私自身も成長させてくれたなと思います」(要約)と語った。失敗は成功の母というが、失敗から学ぶことは多い。

1572年、徳川家康は三方ヶ原で屈辱的な敗北を喫した。戦の相手は武田信玄。甲府を出て京都を目指した信玄は、その進路にあった家康の居城浜松城を前に、戦は避けられない状況となった。一方の家康も浜松城に立てこもる籠城戦で叩きのめそうと策を練り信玄が攻めてくるのを待ったが、何と信玄は浜松城を素通りした。こんな侮辱はないと憤慨した家康は連戦連勝の慢心もあり、「野戦は圧倒的不利」と進言する家臣の反対を押し切り、後方から一気に攻めようと城を出た。

しかし、すべては信玄の謀略だった。「籠城戦では最強の騎馬軍を活かすことができぬ」と考えた信玄は、野戦に持ち込むべく敢えて浜松城を素通りしたのだ。まんまと敵の術中にはまった家康は、武田軍の猛撃に遭い命からがら城へと敗走した。これが三方ヶ原の戦いにおける家康敗退の概要だ。

その後の家康は、関が原の戦いでは籠城中の石田光成を野戦に誘い出し、大阪の陣では大阪城の堀を埋め立てて豊臣軍を城の外に出した。自らを打ち負かした信玄の戦術を自分の策として実戦したのだ。失敗の原因が自己の慢心にあったと省みて、それを教訓としたことが家康の強さだった。 人はミスを犯すし失敗もする。人生はその繰り返しでもある。同じ過ちを繰り返す者、失敗して這い上がれずに終わる者も数多くいる。「負け癖」という言葉が示すように、負けが続くと人はその苦しみにも慣れてしまい、「負け癖」が染み付くと苦しみから抜け出す術も考えなくなってしまう。これが負けの怖さである。

“負け”で終わらないためにも、失敗の一つ一つをきちんと受け止め、次に活かしていくことが大切だ。失敗を糧に謙虚に学び続ける。それが成長できるか否かの分岐点となる。負けた時に人は真価が問われるのだ。