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湯気立つ餅 No.932

「餅入れて粥を煮る日や松納」(碧梧桐)。この正月も、いつものようにお餅をいただいた。帰省の見送りなどによる巣ごもり需要で、今年の餅消費量は例年以上に増えるのではないかという予測もある。

さて、日本で一番餅好きが集まる地域はどこだろうか。都道府県民1人当たりの年間の餅消費量の調査によると、2019年のトップは福井県で34.5個。2位富山県の31.3個、3位石川県の28.7個と北陸勢がつづく。全国平均は17.8個で、東京都は18.3個だった。18年のトップ3は富山県(31.3個)、福井県(31.2個)、新潟県(30.4個)の順。やはりというか、米どころの北陸信越が上位を占めていた。

国内産水稲もち米100%の包装餅の需要拡大を図る全国餅工業協同組合は、10月10日を「おもちの日」に制定している。なぜ、かつての「体育の日」かと疑問が湧いたので調べてみると、エネルギー源や栄養補給源としてスポーツに最適なのだという。100g当たりの糖質(炭水化物)は米の37.1gに対し、お餅は50.3gと高く、昨今のトレンドからすると糖質過多は少し気になるが、持久力を要するマラソン選手に愛好者は多い。ついつい食べ過ぎてしまう方には、大根おろしと一緒に食べることをオススメする。大根の消化酵素がデンプンを分解するらしい。

お餅が最も売れるのは12月だが、正月だけでなく祝い事やハレの日にも食べる伝統食でもある。保存ができ、携行できる食料としてモチ歩ける便利さもある。最近は非常食用として“水に1分間浸すだけで食べられる”あんこ餅、いそべ餅、きなこ餅なども販売されている。火を使えないような状況でも最低限のカロリーを得ることができ、まさにサバイバルフーズである。

こうした知恵は戦国時代からあった。武田信玄vs上杉謙信で有名な川中島の決戦。武田軍の兵糧食は「ほうとう」だった。甲斐は米を作る平地が少なかったため、山を削って小麦や大豆を作り、粉食を主食にしていたためだ。一方、米が豊富な上杉軍は、笹の殺菌効果を活かした「笹団子」を携行して戦いに臨んだという。

「あたたかき息のごとくに餅置かる」(中根美保)。まだ湯気の立つ、つきたての餅がイメージできる。厳しい寒さが続いている。本年も弊社レーダー欄を通じて餅の湯気に劣らぬあたたかい風をお送り出来たらと思う。

パラダイムシフト No.933

「無印良品」を展開する良品計画は、昨年7月から試験的に行っていた家具レンタルの月額定額サービスを、1月15日から全国182店舗で本格展開している。

商品は脚付マットレス(ベッド)やテーブル、チェアなどシンプルなものばかりで、1年~4年までの期間を指定できるプランを提案している。面白いのが料金設定で、販売価格2万7900円の脚付マットレスは1年契約なら月額2140円、4年契約なら同560円。1年契約で総支払額2万5680円、4年契約で2万6880円と1年借りるのも、4年借りるのも1200円しか変わらない。また販売とレンタルの価格差は1年で2320円、4年で1020円しかない。

この点をみると、1年借りるよりも4年借りたほうが得じゃないか、いやいや買った方がいいじゃないか、借りるメリットはあるのか?と、一見すると、このビジネスモデルの狙いは見えにくいが、一部の消費者には魅力的な提案にちがいない。

家具は消耗品である。マットレスの内部はスプリング構造だが、人が寝ているときは常に荷重がかかり、経年利用で腰の部分がへこんでくる。困るのが廃棄で、特に脚付マットレスのような大型家具の処分には自治体の大型ごみ処理を利用する方法もあるが、家から指定された場所に搬出せねばならず、一人で運ぶのは大変だ。だからといって不用品引取業者を呼べば、数千円の手間賃が加算される。よって、特に大学生などは4年契約で借りたほうが、4年後の処分価格込を考えると買うよりも得といえる。

また良品計画は、返却された家具はパーツ交換などのメンテナンスをして再び定額サービスで利用するか、中古品として販売する予定で廃棄削減にもつなげる。今求められる環境に優しいサステナブルな取組みでもあり、消費者の共感も得られるだろう。

私たちは、家、車、家具など生活に必要なモノの所有、ひいてはより良いモノの所有、より質の高いモノの所有に価値を見出し、それを得るためにローンを組み、自由時間を削り働くことも厭わなかったが、ここに来て従来の常識を覆す“パラダイムシフト”が起きている。無理して所有しなくてもいい、そのとき必要なものを必要な分だけ利用する生活でいい。そうすればローンや労働に追われる生活を送らなくてもいいと ―― 。

そんな考えの広がりを背景に、この家具レンタルのようなビジネスモデルへのシフトも求められている。

それぞれの特別の日 No.934

東京で引きこもりがちだった女子高生の天野アキ(能年玲奈、現のん)が、母、春子(小泉今日子)の実家である岩手県北三陸市に引っ越すことから始まったNHKの朝ドラ『あまちゃん』。宮藤官九郎のセンスあふれたこのドラマは2013年4月から半年間放送され、人気を博した。

2011年3月11日午後2時46分。ドラマではアキの親友ユイ(橋本愛)の乗る電車がトンネルにさしかかった時、それは起こった。マグニチュード9.0の大地震。長さ500キロにわたる沿岸を襲った巨大な津波と火災。さらに福島第一原発事故が重なったことで、終わりの見えない複合災害が始まった。その東日本大震災から10年。「3.11」は、今も特別の日である。

震災後、ドラマのロケ地となった岩手県久慈市の縫製工場を訪れた。応接室の一部にベニヤ板が張られていた。聞けば津波に流されてきた丸太が応接室の壁をぶち抜いて入ってきたという。幸い従業員に死傷者はなかったが、「生と死の境は紙一重」を実感したそうだ。別の工場の社長さんからは、「義援金は助かるが、この土地でずっと生きていくには何より仕事が必要。従業員の生活もある」と、発注継続を強く願う言葉も聞いた。先の工場は今も操業を続けているが、昨年からは高級婦人服ではなく、マスクや医療用ガウンの縫製が中心になっている。

福島県では津波で電源を喪失した福島第一原発が甚大な被害をもたらした。1号機の炉心が露出したことで、11日午後8時50分に福島第一原発から半径2キロ以内の住民に避難指示が出された。12日午前5時44分には半径10キロ圏内の住民に避難指示が出され、双葉町の住民は川俣町へと逃れた。12日午後3時36分には第一原発1号機が水素爆発し、午後6時25分に避難指示は20キロ圏内に拡大、深刻さを増していった。震災後も福島は食の安全問題をはじめ、様々な風評被害に苦しめられた。今でも福島県から県外に移った2万9千人を含め、全国で約4万1千人が避難生活を続けている。

除染、建物解体、インフラ復旧・復興。係わった人の数だけこの10年の物語はある。「不安定な再生エネルギーに頼れば、国内製造業は空洞化する」と主張する原発推進派も復活した。もう忘れてしまったのだろうか。震災後、日が落ちると、すっぽりと闇に閉ざれた一帯が今も残っているというのに。

出会いの奇跡 No.935

勝海舟は若い頃、これからの外交には西洋兵学が必要と考え、蘭学の習得に努めたが、非常に貧乏で書物を買う金がなかったので、日本橋と江戸橋の間の小さな書物商に通って立ち読みを繰り返していた。店主も勝の事情を察して親切にしてくれた。

その書物商の常連に渋田利右衛門という北海道の商人がいた。渋田は無類の読書好きで、商用で江戸へ来るたびにここに立ち寄り、書物をまとめ買いしていたが、いつも立ち読みしている勝の存在が気になっていた。店主から勝の事情を聞いた渋田は「それは感心なお方だ。自分も書物がたいへん好きだから、一度お話したい」と言い、店主の仲介で二人は出会った。少しばかり言葉を交わすと渋田は「同じ好みの道だから、この後のご交際を願いたい」と勝に申し出る。そして数日後、渋田は勝の家を訪れた。当時の勝の家は破れた畳三枚で、天井板は薪にして一枚も残っていなかったが渋田は特段気にかけることはなかった。そして、帰りがけに懐から二百両の金を出して「書物を買ってください」と言った。勝は驚いて返答できずにいると、渋田は「いや、そんなにご遠慮なさるな。これであなたが書物を買ってお読みになり、そのあと私に送ってくれれば結構だ」と、強いて金を置いて帰った。

その後も二人の交流は続き、勝はますます蘭学に傾注する。そして、ついに勝の知識が幕府の目に留まり、無役の身から立身出世の足がかりをつかむことになる。勝は出世してからも蘭学本を翻訳し、渋田に送り続けた。渋田は函館で「渋田文庫」を設け、図書館のように蔵書を解放し庶民教育に尽力した。勝が自らのことを語った『氷川清話(ひかわせいわ)』には、渋田との出会いが詳しく記されている。

勝の人間性に惚れたのか、慧眼があったのか、貧しい下級武士を支援した渋田の心意気が幕末の歴史を塗り変えたともいえる。渋田の支援がなければ、勝は世に出なかったかもしれない。となると、勝の弟子竜馬も維新の舞台に現れなかったかもしれないし、竜馬の奔走なくして薩長同盟成立はあり得ない。渋田と勝との書物商での出会いが歴史を大きく動かしたのだ。

渋田は享年40歳と若くして亡くなった。明治維新後、勝は渋田の恩に報いるべく、渋田文庫の蔵書の数万冊すべてを函館奉行所で買い上げた。渋田は「図書館の祖」として函館の歴史に名を遺した。誰しも自身の人生に少なからぬ影響力を与えた人物が存在しよう。春は出会いの季節。出会いの奇跡はどこに転がっているかわからない。

監督の言葉 No.936

4月26日(現地時間25日)に開催された第93回アカデミー授賞式で『ノマドランド』のクロエ・ジャオが監督賞を受賞した。同賞の受賞は女性監督としては、『ハート・ロッカー』で2010年に受賞したキャスリン・ビグロー監督以来史上2人目で、アジア系女性監督としては初の快挙となった。

『ノマドランド』はジェシカ・ブルーダーが書いたノンフィクション『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』を原作に、リーマンショックを発端に経済危機で家を手放さざるを得なくなった高齢者たちが、車上生活をしながら仕事を求めて全米各地を旅する姿を描いた作品。時に厳しい気候条件など過酷な車上生活をリアルに見せつつ、ノマド仲間と触れ合う安らぎのひと時も描き、広大で美しい自然のなかで、生きることの希望も感じさせてくれる映画だ。監督賞のほかに作品賞、制作も兼ねているフランシス・マクドーマンドが主演女優賞を受賞している。

中国、北京で生まれたジャオ監督は、ロンドンの寄宿学校を経てアメリカに移り、ロスアンゼルスの高校を卒業、マウント・ホリヨーク大学で政治学を学んだ。いくつかの職を転々とした後、ニューヨーク大学大学院のティッシュ芸術学部で映像制作を学び、在学中に撮った初の長編映画が、2015年のサンダンス国際映画祭のインディペンデント・スピリット賞初監督長編作品賞を受賞。2017年には、怪我でロデオの道を絶たれたカウボーイの姿をドキュメンタリータッチで描いた映画『ザ・ライダー』を制作。これを観て感銘を受けたフランシス・マクドーマンドが本作の監督にオファーしたのだ。

ジャオ監督が受賞のスピーチで語ったのは、子供の頃に父と暗唱した中国の古典『三字経』に出てくる言葉「人之初 性本善」。「人は生まれながらに善人である」という意味のこの言葉は、彼女に大きな影響を与えたという。「今でも、これと正反対のことが真実ではないかと思えるような時でも、私はこの言葉を信じています。私は世界中どこへ行っても、常に人々の善良さと出会ってきたのです。どんなに難しくても、信念と勇気を持って、自身の善良さを持ち続け、お互いの善良さを手放さない人たちに贈る賞です。この賞はあなたたちのものです。あなたたちが私に前進する勇気を与えてくれるのです」。時に性善説を疑いたくなる日々を送っているなかで、勇気をもらえたスピーチだった。

まだ長編3作目のジャオ監督、今後の活躍が楽しみだ。

生活協同組合 No.937

今から100年前の1921年(大正10年)4月、日本初となる市民による生活共同組合「神戸購買組合」が現在の神戸市中央区八幡通で結成された。続いて5月には、現在の神戸市東灘区住吉で「灘購買組合」が結成された。いずれも1918年に発生した米価大暴落による米騒動がきっかけで、良質な生活用品を適正価格で購入できるようにすべく、社会運動家の賀川豊彦の指導のもとに計画されたものだ。

賀川は1888年に神戸の実業家の家に生まれたが、幼くして両親と死別し家業も破産、孤独な幼年期を過ごした。青年期にキリスト教に入信しキリスト教社会主義に傾倒。神戸のスラム街で奉仕活動を始め、「スラム街の聖者」として世界的にも知られる存在となった。この時の救済活動が日本の生活共同組合の原点である。賀川はプリンストン大学とプリンストン神学校に留学した経験をもとに、貧困問題を解決するため労働者の生活安定を目的とする生活協同組合運動に着手する。キリスト教の博愛精神で地域ぐるみでお互いに協同して生活を守り合う消費組合を創ろうと考えたのだ。協同組合運動の草分け的存在であったイギリスのロッチデール先駆者協同組合が手本となった。

賀川の思想には関西の実業家も多数賛同し、社会公共の奉仕事業として生活協同組合の結成に協力した。こうして結成された神戸購買組合と灘購買組合は、1962年4月に合併して「灘神戸生活協同組合」となり、日本一のマンモス生協となった。1991年の創立70周年には名称を「生活協同組合コープこうべ」に変更。1995年の阪神・淡路大震災では多くの店舗が被災し、近年は流通小売業態の多様化からディスカウントストア等との競合に晒されているが、現在も業界トップクラスを維持している。

今年2月に行われた日本生活協同組合連合会の「生協・コープの宅配の利用に関するアンケート調査」によると、新型コロナウイルス感染拡大を機に、新規利用者で20~30歳代の既婚者が増加、全体の6割以上となるなど、若年層に生協宅配利用が広がっていることがわかった。また新規利用者の約7割が宅配の利用を継続したいと回答しており、コロナ禍での生協宅配利用が定着しつつあるようだ。

100年前の結成当初は、組合員宅を回って注文を聞いて配達する「御用聞き制度」が評判だったというから、これは原点回帰かもしれない。コロナ禍に苦しむ現代にも、賀川が開いた生活共同組合の思想は連綿と受け継がれている。

知の巨人 No.938

ジャーナリストの立花隆さんが4月30日に亡くなった。享年80歳。立花さんが1974年に『文藝春秋』に掲載した「田中角栄研究」は、田中角栄内閣を総辞職に追い込む引き金となった。不動産の登記簿謄本などの公開されている資料を着実に調べ上げ、それらを基に鋭い論理で事実を解明した「田中角栄研究」は読者を納得させる迫力があった。

その後も、立花さんは文理の枠を超えた、すべての分野で絶え間なく発信をし続けた。「ぼくは、ひたすらよりよく知ることだけを求めて、人生の大半をすごしてきた人間です」と生前語っていた(東京新聞6月24日朝刊)。膨大な知識と読書量から「知の巨人」と呼ばれていたが、「『何でも知っている人』ではなかった。『知りたがる人』だった」(朝日新聞6月24日朝刊)という。立花さんは、チャップリンの言葉“私の最高傑作は次回作だ”を、まさに実践している人だった。

論語(季氏第十六)に「益者三友(えきしゃさんゆう)」という言葉がある。「孔子曰く、益者三友、損者三友。直を友とし、諒を友とし、多聞を友とするは益なり。便辟を友とし、善柔を友とし、便佞を友とするは損なり」(良い友とは、正直な友、誠実な友、博識な友。悪い友とは不正直な友、不誠実な友、口先のうまい友である)立花さんは、「益者三友」の条件を三つとも満たす人であったと思う。そして、益者三友のうえに、清冽さを持ったジャーナリストだった。清らかであるためには烈しさを持っていなくてはならない、という意味で。

歴史学者の田野大輔(甲南大学教授)氏は、『群像』2021年7月号の「新書の役割『ナチスは良いこともした』と主張したがる人たち」で良質の入門書を読むことを勧めている。最近は、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」に反撥するあまり、教科書的な見方に不満を抱いて、陰謀史観などの“斬新”な主張に引き寄せられる人が多いようだ。それゆえに田野さんは、専門家の研究成果を平易に語る良質の入門書の果たす役割は大きいと述べている。

現在のような混乱した時代のさなかに、日本は立花さんのように博識で、その上、常に社会全体、学問全体を知りたがる、そして発信力のある「清冽な」ジャーナリストを失ってしまった。それは、信頼できる「入門書」へ人々を導く人、あるいは練達の山岳ガイドを失ったに等しいことだと思う。

ひぐらしの季節 No.939

「ひぐらしの鳴きやんでより青き闇」(秋山百合子)。セミは夏の季語だが、蜩(ひぐらし)は初秋である。盆が過ぎ、カナカナというさびしげな鳴き声が聞こえれば、秋はそう遠くない。日が暮れる頃に鳴くから、「日を暮れさせるもの」と“ヒグラシ”の名がついた。実際は梅雨の頃からずっと鳴いていたのだが、騒がしいクマゼミやミンミンゼミの声に隠れていたのか。正岡子規は「蜩や一日一日をなきへらす」、高浜虚子は「人の世の悲し悲しと蜩が」という句を詠んだ。

2025年には3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という超高齢社会に突入する。高度成長時代が日本の盛夏なら、今やヒグラシが鳴く季節かもしれない。若者時代に大きな市場を作ってマーケティングのターゲットになってきた団塊世代も、75歳を迎えようとしている。歌人の小高賢氏は『老いの歌』(岩波新書)で、「時代や社会は人生の例外的な時間として老いを避け、排除し隔離してきた。よくわからない存在だからである」と、老いに対する考察不足を指摘する。「『お母さんに会ひたい』と泣く真夜中の母を泣きやむまでさすりをる」(安立スハル)には、急速に衰えた肉親への驚きがある。娘であっても、老いた母の心情にはなかなか近づけない。誰もが年を取り、やがて死を迎える。自身の老いに戸惑う人も多い。老いの在り方も様々だが、そうした老いの研究はさほど進んでいないのではなかろうか。

「ふり向けば空席のみが増えてゆく最終バスのわれは乗客」。2・26事件をテーマにした句も詠んだ女流歌人の斎藤史は1909年(明治42年)に生まれ、2002年(平成14年)に93年の生涯を閉じた。この句は、年々知人がいなくなるという老いの日常を詠ったものだ。ほかにも斎藤は晩年に「携帯電話持たず終わらむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか」というエネルギッシュな句を読んでいる。「ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉(あさげ)とし何で残生が美しかろう」という句では、ひとり暮らしの「朝食をぐじやぐじやのおじや」で済ます現実を受け入れながら、ここにも老いに向き合い、生きるとはこういうことだという覚悟を込めている。

老いるということは、寂しくて悲しいばかりではない。「老いは特別なものではない。外部の目が特別なものに囲い込んでいるにすぎない」と小高氏。高齢者へのマーケティングの難しさはこの辺りにあるのではないか。