2018年1月のレーダー今週のレーダーへ

俯瞰するために No.850

東京株式市場では4日大発会の日経平均株価が26年ぶりの高値になり、「戌年は笑う」の格言通りの年明けになったが、多くの庶民にとっては「めでたさも中くらいなりおらが春」(小林一茶)だったのではなかろうかと、勝手に拝察しては失礼か。

年賀の挨拶がスマホや携帯による「あけおめ」メールにとって代わってしまった結果、「草の戸に賀状ちらほら目出度さよ」(高浜虚子)の雰囲気だし、かつて「日本がここに集まる初詣」(山口誓子)と詠まれた賑わいも、年々薄れつつある気がする。

…… などというバレバレの書き出しで本年最初の本欄を始めたのは気が引けるが、最近、俳句の人気が復活の兆しにある。著名人が作句に挑むTBS系バラエティ「プレバト!!」(木曜日)の「才能査定ランキング」は、思いがけない人が才能を発揮する意外さや、俳人・夏井いつきさんによる容赦ない添削=ダメ出しも痛快である。

それだけでなく同番組では、たった一文字の使い方や言い回しによって、脳裏に浮かぶ情景が全然違って来る日本語表現の奥深さを、改めて思い知ることがしばしばだ。

過日は、意外にも格付け1位のミュージシャン泉谷しげるが「暮れる年あいさつかねて買い出しに」と詠んだ歳末風景の句を、夏井先生が「あいさつをかねて買い出し年の暮れ」と直した。配列を入れ替えただけで落ち着きがピタリと決まる俳句の奥深さ。

俳句は、室町時代の公家の遊びだった連歌が原点。それを17世紀に松尾芭蕉が、庶民でも楽しめるよう制約を緩めるとともに芸術作品としての質を高めた俳諧を生み、さらに明治・大正時代に正岡子規が写生的表現を追求して現在の姿が生まれた。

その芭蕉はしかし俳句を「夏炉冬扇(かろとうせん)」、つまり「実生活では何の役に立たないもの」と呼んだ。自分が感じた思いを削りに削って17文字に凝縮させてみたところで、「謂ひおほせて何かある(言い切ったところで、何か意味があるのか)」と。俳人・黛まどかさんは「日常生活には無用でも、心豊かな人生を送るにはとても大事なことだと、芭蕉は本当は言いたかったのではないか」( シンクタンク・東京財団の講演で)と言う。

脳科学者・茂木健一郎氏も、夏井さんとの対談で話している。「人間は、脳に負荷がかかっていないと達成感、爽快感を得られない。俳句は、より的確な表現を探して苦労するからこそ、高い達成感、充実感を得られ、心のリフレッシュに役立つんです」

作句には元手も条件も要らぬ。世の中の事象を俯瞰する訓練に、今年からいかがか。

信頼回復のために No.851

身内に当事者が居たわけではなくても、ニュースを聞いた多くの人々が「そりゃあないよ」と、同情すると同時に憤慨して受け止めたのではないか。

振袖レンタル業者「はれのひ」(本社・横浜)が、よりによって成人式当日に事業を停止した。このため一生に一度の晴れ姿を楽しみにしていた式への出席を諦めざるを得ない新成人が少なくなかった今回の事件は、気の毒というだけでは済まず、せっかくの晴れの日を、彼らには将来振り返りたくもない悔しい思い出に変えてしまったことに、経済活動に携わる先輩社会人として申し訳なくさえ思う。

新成人向けの振袖マーケットは、その年の成人式が終わった直後の2~3月から、成人式を来年あるいは2年後に迎える高校3年生などを対象にして始まる。「良い(=高額)振袖を決めてくれる上客ほど、準備が早い」のが業界での通説。そこで事業者は、競って豪華なカタログを制作し配布した後、電話でアプローチする。

営業の甲斐あって顧客が展示会を訪れ、好みの振袖が決まった時点で数万円の予約金をもらい、その後1カ月以内に残金全額の支払いを求めるのが一般的という。

今回、事業を突然停止した「はれのひ」は2008年、呉服小売店を対象にしたコンサルティング会社として創業した。間もなくレンタル業に転換、各地に支店を開設して業容を拡大、八王子店のオープンは15年11月だった。ということは、仮に一昨年1月に契約を結んだ顧客は、社歴3年半、オープン後わずか2カ月の店舗で、2年後に着る振袖のために数十万円もの大金を前払いしたわけだ。

半年先に何が起こるかさえ想像できない現代。それなのに顧客が、確実な保証もないまま大金を前払いしたのは、もしかするとそれが「きもの」だったからではないかとも思う。振袖という、伝統技術によって生み出された価値ある高額商品を取り扱う関連業界の信用・信頼が、2年も前に契約する消費者の気持ちの中にあったとすれば、今回の事件でその信用・信頼が揺らぎ、崩壊しかねないことを恐れる。

業界誌調査によれば、振袖の市場規模はレンタルを含めて695億円。しかし、信用を築くのは一生でも、壊すのは一瞬である。今回の事件では被害者に急遽手を差し伸べる同業者もあったが、業界全体が「早期予約・全額前金制」を含む商習慣を見直すなど、信用・信頼を再び積み直す一致協力体制が不可欠ではないかと。

「残心」忘るなかれ No.852

茶華道をはじめ日舞や洋舞、また柔剣道や空手、弓道、さらにはピアノやバレエなどの多くの習い事で、年の初めに行われるのが「初稽古」だ。

「稽古」は、中国最古の古典「書経」や日本最古の歴史書「古事記」にも載る言葉で、「古(いにしえ)を稽(かんがへ)る」が本来の意味。つまり「稽古」は、技術や型を学ぶこともさることながら、まずはその背景にある、先人たちの修練の結果生み出された物の考え方を学ぶことに、むしろ本旨がある。

「見取り稽古」という言い方があるのは、それだからではないか。花を活けたり茶を点(た)てたり、あるいは舞ったり誰かと闘ったりする前に、師匠・先輩の動きや所作をただじっと見ているだけ。すると、自分とは何かが違うことに気付くようになり、それを吸収して行くことによって上手になったり強くなる ―― それが「見取り稽古」だ。

宮本武蔵は、自著「五輪書」に「観見の目付」と呼ばれる教えを残した。いわく「眼の付け様は、大きに広く付くる。観見の二つあり。観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」(目付には観と見の二つがある。観は心で見て、見は眼で見ること。兵法では、心で察知することを重要視し、実際に目で見ることはその次にして、近い所も遠い所も同様に感じなければならない) 

心の目で「観る」とは、言い換えれば「洞察力」を表わす。「見取り稽古」の意味・神髄はそこにあるということだろう。

とりわけ剣道の試合では、試合する双方の「残心」の有り様(よう)が厳しく問われる。「残心」とは、打った(斬った)後にあり得る相手の反撃に対して、あらかじめ備えておく「心構え」のこと。日本独得の「余韻の美学」と称してもよかろうか。

剣道ではそのことが審判規則12条に明記されている。「有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、(かつ)残心あるものとする」。つまり、攻撃ポイントを打突しただけでは「有効打」とは認められないのだ、攻めた後の相手の反撃を予測し、備える余裕が残っていたと認められなければ。

昨年は各界著名人による失言・暴言、果ては不倫スキャンダルが目立った。一般社会でも、SNSという情報発信手段を安易に誤用した人騒がせな話題が尽きなかった。

何をすれば、どんな結末を招き得るのか ――1億総国民が「残心」忘るなかれと思う。

どう生きるか No.853

♪ 病葉(わくらば)を 今日も浮かべて/街の谷 川は流れる/ささやかな 望み破れて/悲しみに 染まる瞳に/黄昏の 水のまぶしさ ―― 21日多摩川で入水自殺した思想家・西部邁氏は、1961(昭和36)年にレコード大賞新人奨励賞を受賞した仲宗根美樹のこの歌「川が流れる」をとても好きだったそうだ。まさか、そこまで貫き通したのだろうか。

保守派の論客として知られた西部氏。東大在学中は全学連委員長として安保闘争に参加し、学生運動を指揮。その後横浜国大、東大などで教鞭をとるかたわら、評論活動に進み、近年は討論番組「朝まで生テレビ」(テレビ朝日系列)にも出演、「親米の現実路線を取る保守論壇の中心からは離れた位置から、安全保障を米国に依存して経済大国への道を突き進んだ日本のあり方を痛烈に批判し続けてきた」(産経新聞、要約)。

昨年12月出版の自著「保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱」の帯に「大思想家・ニシベ 最期の書」と書いたように、以前から「自裁死」を示唆していた西部氏は、それを実践した。日本人男性の平均寿命80.98歳(2016年)という中で、78歳の西部氏がなぜ逝き急ぐ必要があったのか、筆者には理解できないが、とにかく残念でならない。

たまたま。マガジンハウス刊「漫画 君たちはどう生きるか」がいま大ヒットしている。昨年8月発行なのに今月ですでに19刷、135万部突破だそうだ。

原作は1937(昭和12)年出版の児童文学者・吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」。旧制中学2年生の主人公が日々体験する出来事を聞き、彼に「コペル君」の仇名をつけた「叔父さん」(母の弟)が、物の見方・考え方を「ノート」に綴ってアドバイスを送るという、読めば大人にも考えさせられる話が多々ある、本来は児童書だ。

今回の「漫画」版は、主人公の日常体験を羽賀翔一氏が漫画に描き、「叔父」の「ノート」部分は原作の原文をそのまま載せるスタイル。漫画と文章の「融合」という従来なかった斬新さに加え、その結果、原作よりずいぶん読み易くなっている点も、80年前の児童書を「リバイバルヒット」させる要因になったかも知れない。

いずれにせよ吉野氏の「君たちは…」は、読者の青少年や大人に「どう生きなさい」とか「どう生きるべきか」と“上から目線”で説教しているわけではない。彼が示すのはあくまで「どう生きるか」という問い掛け。その読後だったからだろうか、ふと思った。もしかすると西部氏の「自裁死」も、私たちに対する何かの問い掛けだったのかと。