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「落穂拾い」No.776

19世紀のフランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーといえば、「落穂拾い」「種まく人」「晩鐘」など誰もが美術の教科書などで見た名作で知られる。 その中の「落穂拾い」は、夕暮れ時の農園で、3人の農婦が腰を屈めて落穂を拾う、のどかな田園風景が描かれている ―― と理解しているなら、それは間違いだ。

3人の農婦は、実はこの農園主の家族でもなければ、小作人や雇い人でもない。近くに住む、貧しい人々である。彼らは、他人の畑で、収穫時に取り溢された落穂を拾い集め、それを食べたり売ったりして暮らしているのだ。

他人の農園に断わりなく侵入し、そんな勝手なことをして叱られないのか?

古代イスラエルの指導者モーセの説話をまとめた「申命記」にこう書かれている。「あなたが畑の穀物を刈り入れる時は、隅々まで刈り尽くしてはならない。あなたがオリーブの実を打ち落とす時は、後になって再び枝を打ってはならない。ブドウを収穫する時は、後で再び摘み取ってはならない。それら(穫り残された穀物や実)は在留異国人や孤児、寡婦の物としなければならない。自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから私は、あなたにそうせよと命じる」(抜粋、要約)

その教えに従い、畑にわざと残されたままの落穂を貧困の民が拾い集めている情景を、ミレーは描いたのだ。当時のミレーは貧窮のどん底にあり、自殺を考えていたと知ると、なおさらこの絵の物哀しげな雰囲気が、感慨を持って伝わってこよう。

「落穂拾い」 と言えば、日立製作所を核とする日立グループでは、創始者の一人・馬場粂夫氏が提唱した「落穂拾い会議」が現在も開かれている。「落穂」とは「失敗」のこと、「拾う」とは、それら失敗から浮かび上がる、現在の社内教育から洩れているもの、足りないものを探し出すこと。つまり、失敗の再発を防ぐ重要な会議である。

馬場氏はまた、高度な研究・技術開発に不可欠な人材を育てるために、グループ内で博士号を持つ人々の集まり「変人会」作り、のちに「返仁会」に改称した。「返仁」とは「根本にり、愛や慈悲に満ちたを高める」の意味で、その活動の基底に「空己唯盡孚誠」(己を空しうして唯孚誠)=暖かな思いやり=を盡すこと)との精神を掲げた。その「返仁会」メンバーが現在2000人を超すというのもすごい。

古今東西を問わず、「落穂拾い」が大切な意味を持っていることに注目したい。

ガングロ世代からNo.777

「表現の自由」を保障されている日本だが、90年代に少女たちの間で流行った「ガングロ」ファッションはいくらなんでも度が過ぎており、筆者は受け入れ難い。

そんな「ガングロ」ギャルの残党とも言うべき一人の少女が昨年5月、東京・渋谷で深夜のバラエティ番組の街頭インタビューに応じていた。テーマは「普段使っているのに読めない漢字を調査した件」。突然呼び止められ、「『弁える』って、何て読む?」と訊かれた彼女は、一瞬の間も置かず、「わきまえる」。「エッ? じゃあ『強か』は?」にも、即答で「したたか」。思わぬ正解に驚くインタビュアーに、彼女は真っ黒だけど涼しい顔をして言った。「だってさ~、アタシ、漢検1級、持ってるモン」

彼女は中学時代の1年7カ月、少年院に入っていた。院では午後1~4時が勉強時間。「ボーッとしてるのもヒマだったからぁ、(漢検でも)取ってみるか~、みたいなノリで」。本気で勉強したのは約1カ月、それも1日3時間程度だったが、それなのに、「なんか、受かった」。漢検1級の合格率は10%前後。まぐれで取れるものではない。しかも彼女は、残りの少年院時代に、秘書検定1級まで取ってしまった。

そんな彼女の現在の勤め先は渋谷のガングロカフェ。彼女にとって秘書検定は実際、スキルアップのための資格ではなかったのだ。そのカフェにはガングロ仲間が5~6人。中にはショベルカーなど土木建築関係の資格を15個も持つギャルもいるそうだ。

園田好さん、通称「このみん」は、そのガングロカフェの元店長で、独立し18歳で同系統の店を秋葉原に開いた。ニュースサイト「日刊SPA!」に連載を持つ彼女が綴る思いや考え方は、やはり「ガングロ」ギャルのイメージとはかなり異なる。

「私がいま飲食店の経営者として、約20人のスタッフを抱え引っ張るリーダーとして常に気を付けているのは、自分が口にした言葉を忘れないようにしよう、思いつきで軽々しくものを言わないようにしようということ」

「いまの日本には、オジサンやオバサンへの敬意、大人を尊敬する姿勢や気持ちが足りなすぎる。下の世代が自分たちより上の世代に敬意を持たないような社会は、きっとダメになっていくと思います」

後者を言い換えれば、下の世代から尊敬されるような社会を、私たち先輩世代がどう築いていくかを問われているということではなかろうか。

―― 選挙が、近づいてきた。

お別れの仕方No.778

「昭和」がどんどん遠ざかって行く ―― そう痛感させるお二人の訃報だった。

元々は放送作家、さらに作詞家、ラジオ番組のパーソナリティ、随筆家とマルチな才能を開花させた永六輔さんが、7日に亡くなっていたことが11日公表された。愛妻家だったその人柄を忍んで次女の永麻理さんは、「父は、三途の川ではなく、七夕の夜に天の川を渡って、天国の母に会いに行きました」とマスコミに話した。

実際そんな温かみのある作詞が多かった。「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「夢で逢いましょう」等々の代表曲の、歌い出しだけなら、40代以上のほとんど誰もが口ずさめるのではないか。

♪ウワーオ ウワーオ おなかの底からウワーオ 若い風が街をわたって行く ――1961(昭和36)年から約3年半、NHKで日曜夜のゴールデンタイムに生放送されていたコメディドラマ「若い季節」の同名の主題歌も、作詞は永さん。そして、歌っていたのが双子姉妹のデュオ「ザ・ピーナッツ」だった。

「ザ・ピーナッツ」は1959(同34)年に「可愛い花」でデビュー。その後、「心の窓に灯を」「コーヒー・ルンバ」「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」など多くのヒット曲で人々に親しまれた。姉の伊藤エミさんは2012(平成24)年6月に亡くなったが、妹ユミさんも今年5月に亡くなっていたことが同じ11日、明らかにされた。

日本のポップス界を牽引した永さんと、国民的人気を得た「ザ・ピーナッツ」のユミさんの訃報。それだけで充分寂しいのに、加えて今回は、共通したある点に、「昭和」がますます遠ざかっていくような思いを禁じ得なかった。お二人とも、身内や近親者だけの葬儀を終えた後に、亡くなった事実が公表する形式がとられたことだ。

葬祭業界によると、通夜や本葬に会葬者を広く受け入れる従来の「一般葬」は年々減り、家族や親戚、親しい友人だけで故人を見送る「家族葬」が半数あるいはそれ以上を占めつつある。それが故人の生前の意向であったり、高齢化社会における諸事情・諸問題を思えば、葬儀式の簡素化は、時代に即した合理的な考え方だと理解できる。

理解はしているつもりだが、他方、故人との縁は薄くても、「お疲れさまでした。ありがとう」の思いを伝えたり見送る手立てやタイミングを失うような別れの仕方が増えていることを、それも時代とはいえ寂しく思うのは筆者だけだろうか。

こだわりNo.779

主力ブランド「PORTER」で著名な鞄メーカー「吉田カバン」(=通称。正式社名・吉田)は、こだわりの強い会社である。第1は、生産終了になったごく一部商品を除き「定価販売」にこだわる。第2は「国内生産」にこだわる。当然各々理由がある。 値引き・値下げをしないのはまず、定価で買ってくれたお客に失礼だからだ。また、原材料費・経費+適正利潤=価格という収益モデルが崩れると、職人の工賃に影響しかねないからだ。さらに、定価を崩すとブランドイメージに傷がつくからだ。

第2に、海外に生産拠点を置かず年間180万個の生産のすべてを国内だけ、それも大規模な専用工場ではなく数人ずつの職人による外部工房に委託しているのは、社是に掲げる創業者・吉田吉蔵氏のモットー「一針入魂」の精神を守り続けるためだ。各工房の生産設備もハイテク化されておらず、ほとんど手作りに近い。

時代遅れとも言うべきこだわりは、ほかにも多い。商品管理や発送業務に、バーコードを用いない。自宅兼用の工房で作業する高齢の職人たちにとって、バーコードのタグ付けは余分な負担になるからだ。同様の理由で、本社と工房との連絡は、電話かファックスを使う。仕事に没頭している職人たちに、パソコンで度々メールをチェックしている余裕はなく、ファックスのほうが気付き易くて確実だからだ。

また「価格競争ではなく価値競争に参加する」ことをポリシーに掲げる同社は、愛用者から修理の依頼があった際の独得の対応にも表れる。修理は必ず、その商品を作った職人本人に戻されることだ。作った本人が修理個所を知れば、気付かなかった欠点や問題点を発見し、改善に役立つかも知れないからだ。

そうした物づくりに関わる「吉田カバン」独得の姿勢を、3代目・吉田輝幸社長は昨年、「吉田基準」と題する著書にまとめた。その中で、こう書いている。 「入社後、6年間は倉庫番だった。最初は『倉庫の整理か』ぐらいの気持ちでいたが、毎日働いているうちに気が付いた。商品の流れや流行が、だんだん分かるようになってきた。いろいろな基礎知識が身に付いた。もし6年間の倉庫番経験がなかったら、自分は『現場を知らない社長の息子』で終わっていたと思う」(抜粋・要約)

その意図に気付いた本人、あるいは、黙って気付かせようとした先代だったからこそ、「吉田カバン」はいま業界で揺るぎない地位を築けているのだろう。

乳母車No.780

同じツル性植物でも、似て非なる「藤」と「籐(とう)」がある。「藤」は日本固有のマメ科植物、「籐」はアフリカや東南アジアなどの熱帯域が原産地のヤシ科植物である。

籐は古くから、籐家具の材料などに使われた。かつて話題の映画「エマニエル夫人」で彼女が座っていた籐椅子を知る世代もまだ多かろうが、籐家具づくりが欧州から始まったのは、欧州には当時、籐の原産地を植民地に持つ国が多かったからだ。

籐は、日本にも古くから持ち込まれた。正倉院には籐製の篭のほか、薙刀(なぎなた)の柄巻きや、かがり部分に籐が使われた鎧が残る。また棟木の結合、桶や樽のタガ締めなど、最初は部材として用いられたが、江戸時代に入るとタバコ差しなどの小物、明治以降には枕や小ぶりの椅子、箪笥、敷物など、籐製品は生活用具全般に急速に広まった。

それら籐製の生活用具には共通点があった。夏の季節用品が多かったことだ。理由がある。籐は表皮が琺瑯質で熱伝導性が高く、また茎の内部を通る多くの導管が調湿機能として働くため、とくに夏は、触るとヒンヤリした涼感があるからだ。

そこで、現代のように自宅に冷房設備がない明治~昭和初期に、夏になると籐椅子や籐製の間仕切り、敷物、衝立、枕などが季節用品として使われるようになった。

夏を涼しく感じる ―― そんな籐の長所が最近見直されている生活用品がある。「乳母車」である。幼少期、籐の「乳母車」に乗せられていた世代もまた多かろう。

西洋風の「ベビーカー」を日本に最初に持ち込んだのは福沢諭吉だが、それをヒントに大正時代に籐製の「乳母車」を考案したのは名古屋の鬼頭鍬次郎氏とされる。彼が鍛冶師や箱作り、篭編みなどの職人を集めて作った籐の「乳母車」は、日本でも兄弟がまだ多かった当時の育児に向いており、名古屋発の新商品として全国へ広まった。

その後、少子化・核家族化・洋風化など日本人の生活環境の変化に伴い、徐々に姿を消した「乳母車」。しかし最近、①路面の照り返しがない ②排気ガスの直撃を避けられる ③つかまり立ちし始めた幼児でも乗せられる ③炎天下に触ってもヒンヤリしていて火傷しないなど「乳母車」の長所が見直され、一部の幼稚園・保育園では、園児を近くの公園で遊ばせる際などに、「乳母車」に数人ずつ乗せて運ぶ光景も増えている。

かつて一世を風靡した物には、見直せば、現代にも役立つ捨てがたい長所・利点がある ―― 籐製「乳母車」のプチ復活は、そんなことを教えている気がする。