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慣用的表現 No.689

記者を生業にしながら恥ずかしい限りだが、「やぶさかではない」とは「仕方なく~する」という消極的承諾を意味する表現だと筆者は誤解していた。文科省が先日発表した平成25年度「国語に関する世論調査」では44%が同じように答えている。本来は逆で、「喜んで~する」という積極的承諾を意味するとの正解は34%にとどまった。

同様に、「世間ずれ」を「世の中の考えから外れている」の意味と誤解している人が55%(正しくは「世間を渡ってずる(賢くなっている」で、正解率36%)、「煮詰まる」を「(議論が行き詰って)結論が出ない状態」と誤解している人が40%(正しくは「(議論や意見が出尽くし)結論が出る状態」で、正解率52%)等々、意味の理解が変わったり時には正反対になってしまった日本語が少なくない。

ただ、それを「日本語の乱れ」と一概に否定しにくい面もある。言葉の“新陳代謝”とも言えるからだ。今回調査では「~る」「~する」といった言い方についても調べている。例えば「告(こく)る=好意を告白する」「きょどる=挙動不審な態度をする」「タクる=タクシーに乗る」「ディスる=けなす、否定する」など。最近のこうした表現に大人世代は眉を顰める。けれど、そういう自分は「愚痴る」「事故る」「チンする」「お茶する」「パニクる」とは口にしないか? ゴルフ場で「ダフる」ことはしょっちゅうだろうし、カラオケで十八番の「銀恋」を「ハモる」ことだってありはしないか?

テレビ録画が、ビデオテープからハードディスクに変わった。したがって、いまリモコンに「巻き戻し」ボタンはない。各メーカーは2000年前後から表記を「早戻し」に変えた。変えたにもかかわらず、テレビ制作の現場では現在も「VTRにまとめました。どうぞ」と司会者が口にする。「たしかにVTRはもう使っていません。ただ、そう表現したほうが分かり易い慣用的な表現であるとご理解ください」(NHK)とか。

「強い硫黄臭、救援隊を阻む」(朝日)、「降灰、硫黄臭 … 救援阻む障壁」(産経)と新聞は見出しを立て、テレビでも「硫黄の臭いが昨日より濃くなっている」とレポーターが御嶽山の現場から報告している。しかし、「硫黄は無臭。臭うのは、硫黄と水素の化合物した硫化水素だ」と専門家の大学教授がツイッターに書き込んでいた。なるほど。

新譜がレコードで出ることなどない時代に、いつまで「日本レコード大賞」かとの指摘もあるが、そんな慣用的表現を広い心で受け入れることに、筆者はやぶさかではない。

新しい「光」 No.690

赤崎勇・名城大学教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大学教授へのノーベル物理学賞授賞が決まった。授賞理由は「明るくエネルギー消費の少ない白色光源を可能にした高効率の青色LEDの発明」である。

赤、緑色を出すLEDは1960年代に開発されていた。残る青色LEDを作れば、あらゆる色を省エネルギーで鮮明に再現できる。しかし青色LEDは半導体の結晶を極めて高品質で作る必要があり、「20世紀中の開発は不可能」と言われていた。

それでも多くの研究者がセレン化亜鉛を素材にした研究に取り組む中、1973(昭和48)年から窒化ガリウムを使って開発に取り組んでいたのが、当時松下電器産業(現パナソニック)の研究所に在籍していた赤崎氏だった。その後会社を辞め名古屋大学教授に就いた赤崎氏は、大学院生だった天野氏と二人三脚で研究を続け、ついに1985年、ある偶然をヒントに、LED製造に欠かせない窒化ガリウム結晶を作ることに成功。また、日亜化学工業の社員だった中村氏は、2人の研究成果を発展させた独自の結晶育成法を開発し、安定して長期間発光する青色LEDを量産・実用化する道を開いた。

受賞決定後、「一緒に仕事してくれた仲間たちのおかげ」(赤崎氏)、「世の中の役に立てたのはこの上ない喜び」(天野氏)と喜びを語った両氏に対し、中村氏は「(研究を続けてこられた動機は)怒りがすべて」と尖った言い方をした。背景には、開発後、成功報酬をめぐって会社と対立、訴訟問題に発展した経緯があったからにほかあるまい。

当時世間の注目を集めた「青色LED訴訟」で、東京地裁は2004(平成16)年、200億円の発明対価を求めた中村氏の主張を認め、日亜に全額の支払いを命じた。しかし日亜側が控訴した第二審で東京高裁は、利息を合わせてわずか8億4000万円での和解を勧告した。中村氏はもちろん不満だったが、現行の日本の司法下では最高裁へ上告しても勝てる見込みがないと判断、勧告に応じていた。

「過度な権利主張には違和感がある」との声が、当時もあるにはあった。しかし中村氏の提起は、それまでなおざりにされてきた企業内研究者の貢献を、客観的に評価する考え方を経済界に持ち込む契機になった。その点で「青色LED」発明と今回のノーベル賞受賞は、日本の企業内研究者にとって、いわゆる「社畜」から脱し、考え方としての「新しい光」を確かなものとして手にする、晴れがましい出来事になったと言えよう。

平和賞 No.691

彼女が昨年7月に国連でした演説を、テレビで何度も観ることになった。「1人の子供、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン。それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト!(まず教育から)」 満場の拍手に堂々とした態度で微笑み返す彼女が、まだ17歳とはとても思えなかった。

今年のノーベル平和賞は、奴隷のように働かせられている子供たちの解放運動を続けているインドの活動家カイラシュ・サティヤルティさんと、封建的な女子教育の権利を訴えたためイスラム過激派タリバンに襲撃されながらも命を取り留めたパキスタンの女子学生マララ・ユスフザイさんの2人に授与されることが決まった。

マララさんはノーベル賞では初の10代での受賞。発表当日、「あまりに若過ぎる。期待感で授賞するのはどうなのか」という記者団の質問に、ノーベル賞委員会ヤーグラン委員長は、「彼女は、少女が教育を受ける権利の代弁者」と答えた。趣旨や意義は理解できるし反論もしにくい話題だが、正直に言うと、多少の違和感を禁じ得ない。

同様の違和感は、今年のマララさんだけでなく、しばらく前から変わってきた「平和賞」の意味や位置づけに対して感じる。創始者ノーベルは遺言で平和賞を「国家間の友愛関係の促進、常備軍の廃止・縮小、平和のための会議・促進に最も貢献した人物」に授与すべし、とした。しかし――。漫画家・赤塚不二夫は「天才バカボン」に「佐藤栄作が(1974年に)ノーベル平和賞をとって以来、世の中全てのことが全く信じられなくなった」と言わせた。核軍縮政策の呼び掛けはしたものの実績がまだない米バラク・オバマ大統領が就任1年目の2009年に受賞したことも、気持ちにストンとは落ちない。

医学・物理・化学・経済の各ノーベル賞は一定期間以上の「業績」が客観的に評価されるのに対し、平和賞は、現在進行形の事柄や人物も受賞の対象にされたり、裏舞台で活発に行われるロビー活動によって選考委員の評価が主観的に陥ったりしやすい。

「EU(欧州連合)」が平和賞に選ばれた2012年、NHKの広瀬広巳解説委員は番組「自論公論」で「誰もが納得する平和への貢献、『成果があったか』という点を今一度問い直してほしい」と話した。同感である。一方、1979年に平和賞を受賞したマザー・テレサは「世界平和のために私たちは何をすればいいか?」と聞かれ、こう答えた。「家に帰り、家族を大切にしてあげてください」 それなら、私たちも受賞できるはずだ。

秋を詠む No.692

「石炭の尽きし山々紅葉せる」。俳人・山口誓子が昭和49年秋、空路で札幌・丘珠から女満別へ向かう途中、眼下を過ぎる夕張あたりを見て詠んだ。閉山し、寂れ行く炭鉱(ヤマ)が、年月とともに再び紅葉が美しい「山」へと戻りつつある情景がそこにあった。

秋を詠んだ名句の筆頭は、松尾芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」だろうか。元禄7年10月に没した芭蕉が、その2週間前に詠んだ最後の句とされる。上句を「秋深し」と覚えている方も少なくないが、間違いで、「秋深き」である。「深し」という終止形ではなく「深き」と連体形にしたからには当然、その後に来るのは名詞。それが景色なのか、音なのか、天候気象なのか、はたまた人の心なのか……それをあえて顕かに詠わなかったところに、この句の、あるいは秋という季節の、奥行きの深さが漂う。

芭蕉で知られるもう一句に「物言えば唇寒し秋の風」がある。「余計なことを言うと厄介だから口を慎もう」の意味として現代でもしばしば口にされる。門下の中村史邦が芭蕉の没後2年後に編纂した「芭蕉庵小文庫」で、句の前置きに「人の短(所)をいふ事なかれ。己が長(所)を説くことなかれ」と記したからだ。

しかし、芭蕉が生涯で詠んだ約900句には、教訓めいた内容の句はほかにない。したがってこの句の「人の短」云々の前置きは、史邦が勝手に深読みした解釈を、芭蕉の死後に付け加えたもので、芭蕉自身は、口を開くと冷気を唇に感じるようになった季節の移ろいをシンプルに表現したに過ぎない、とみる説が専門家には強い。

秋の俳句と言えば、正岡子規の「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」もある。現愛媛新聞の前身「海南新聞」明治28年11月8日号に載ったのが初出。しかし――。

ほぼ2カ月前の9月6日付紙面に「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」の句が載っている。作者は、当時愛媛・松山中学校の教員だった夏目漱石。子規の句は、漱石の作に似ている。しかも当時、子規は漱石の下宿に世話になり、同好の人々と句会三昧の日々を過ごしていたというから、そういう「真似」が通る大らかな時代だったのだろう。

果樹団体が「柿の日」と定めた10月26日は、子規が「柿くえば…」の句を生んだ日である。柿が好物で、だから他にも「渋柿やあら壁つづく奈良の町」「晩鐘や寺の熟柿の落つる音」など柿の句が多い子規は、「柿くふも今年ばかりと思ひけり」と詠んだ翌年の明治35年9月、35歳の若さで不帰の人になった。やはり、物思う秋、だ。

木枯らし No.693

近畿・東京地区に「木枯らし1号」が吹いたと、気象庁が27日発表した。①10月後半~12月中旬に、②西高東低の気圧配置下で、③最大風速8m以上の、④その年初めて吹く、北寄りの冷たい風を「木枯らし1号」と呼ぶ。冬近し、の知らせだ。ただ、「そうかあ。わが町ではいつ頃吹くのかな」と待っていても、その日は来ない。なぜなら「木枯らし1号」は、東京・近畿地区以外では発表されないからだ。

なんでも数十年前、気象庁が各地の気象台を通じて報道機関に「木枯らし1号の観測情報をお知らせしましょうか?」と希望を募った。ところが、東京と近畿以外からは、今流に言えば「大丈夫です」とやんわり断られたのがその理由らしい。

いずれにせよ「木枯らし」 ―― 情感漂う美しい日本語である。ショパン作曲のピアノ練習曲「作品25-11(イ短調)」は、日本で「木枯らし」とも呼ばれる。右手で舞うような6連符、左手では重厚な主旋律が弾かれるこの曲に、まさに曲想ピッタリの「木枯らし」の俗称を付けた先輩日本人の、豊かで繊細な感性を誇らしくさえ思う。

日本人は繊細。だから中国から伝わった漢字だけでは足りず、細やかな感性を生かした日本独得の漢字=「国字」を、一説では2600字も作り出した。例えば、身を美しく保つから「躾(しつけ)」。弟を兄の姿に重ねて「俤(おもかげ)」。雨が滴り落ちる様子を「雫(しずく)」。山道の上り下りの分かれ目だから「峠」。人が引くので「俥(くるま)」。雑草を燃やして肥料にするから「畑」。風が止まれば「凪(なぎ)」。そして、強い風が木を揺らすから「凩(こがらし)」。言い得て妙だ。

「垣根の垣根の曲がり角/たき火だ たき火だ 落ち葉たき…」で始まる巽聖歌作詞、渡辺茂作曲の童謡「たき火」も、3番は「木枯らし木枯らし 寒い道/たき火だ たき火だ 落葉たき…」で始まる。かつて東京都中野区上高田に住んでいた巽が、朝夕の散歩の途中、立派な竹垣のある民家で家人が落葉掃除をしているのをしばしば見た光景を歌にし、1941(昭和16)年、NHKラジオ「幼児の時間」で発表した。

その竹垣の民家は、現在も残っている。だけではない。樹齢数百年とされる数本のケヤキやクスノキも健在。さらに、その落ち葉を焚いて「焼き芋」を作る催しが、近所の子供たちを集めて毎年開かれており、今年も12月14日に予定されている。

11月。木枯らしが吹き、風はだんだん冷たくなって来るが、東京でさえ心温まる話が残っているこの国の良さは、まだまだ捨てたものじゃないと思いたい。