2014年8月のレーダー今週のレーダーへ

「知りたくない権利」もある No.681

長崎県佐世保市で高校1年の女子生徒(16)が同級生(15)を殺めた事件は、マスコミの続報やネット情報でさらに多くを知るにつれ、ますます暗澹たる気持ちになる。

逮捕少女が「(被害少女に)個人的恨みはなかった」と話していると聞き、かえって戸惑う。彼女には小学校時代に同級生の給食に異物を入れたり、中学時代にも動物を虐待するなど異常行動がみられたそうだ。しかしそれらが事件として世間で表面化することがなかったのは、彼女の父親が弁護士、母親が教育委員であったことに伴う「大人の事情」と「配慮」が働いたからだとの匿名情報がネット上には流れる。

そして昨年11月に母親が病気で急逝。そのわずか半年後の今年5月、父親が再婚。その間の3月には、再婚話への反発からか、少女が父親を金属バットで殴り大ケガを負わせていたとされる。しかしこれまた事件化されることがないまま、4月から彼女は、父親が借りた自宅近くのマンションで一人暮らしを始めていたという。

―― 等々、マスコミやネットで流れる情報を鵜呑みにすることの危険性と愚かさは承知のうえで、今回の事件を生むに至った深い原因がどこにあるかを、私たち大人は推察できるのではなかろうか。命を奪われた被害者故人とご両親、親族の筆舌に尽くしがたい悲しみや怒り、悔しさを慮れば書くべきではないのかも知れないが、こうも思うのだ。事件を起こした少女もまた、誰かの、何かの、被害者だったのではないかと。

改めて言うが、加害者少女が犯した罪は許されない。ただ、もう一つ許せないことがある。事件を報じるマスコミの姿勢だ。「人を殺してみたかった」と彼女が口にした今回の事件の猟奇性に、ある程度注目せざるを得ない点は理解する。しかし、被害者少女の遺体が「腹部が大きく切り開かれていた」(共同通信ほか)などと、直截的表現でそこまで触れて第三者に広く「知らせなければならない必然性」が一体どこにあったのか?

不幸にも被害者、加害者双方が在籍していた高校で開かれた全校集会では、生徒数十人が欠席し、出席はしたものの体調不良を訴える者も多かったと聞く。当然だろう。

近頃のマスコミ人には、多感な彼らが受けるであろう精神的ショックを、少しでも和らげようと気遣う「大人の配慮」は欠落しているのか。たとえ事実でも時と場合によってはそれを「伝えない勇気」を持つべきだし、私たち読者・視聴者には「知る権利」だけでなく「知りたくない権利」もあることを、報道人の道義として、心すべきだ。

ある地方CM No.682

「ここで、新婦のお父さまから新婦さまへメッセージがございます。お父さま、よろしくお願いいたします」 娘の披露宴で、司会に促され立ち上がった父親が向かったのは、式場に置かれたピアノの前。黙って椅子に座り、持ってきた楽譜を譜面台に置くと、父親は、ひと呼吸ついてから、静かに、でも明らかに拙く、弾き始めた。曲は「パッヘルベルのカノン」。新婦が幼い頃、先立った母親から教わっていた曲だった。父親は、この日のために娘に内緒で音楽教室に通い、なんとかここまで覚えたのだった。

―― 盛岡市で書店、楽器店、音楽・英語教室などを経営する東山堂のCMが「泣ける」とネットで評判になり、テレビ用の30秒版とは別に動画サイト「You tube」用に作った210秒のフルバージョン版は、再生がすでに190万回を超えている。

少子化の影響で同社の音楽教室も生徒数が年々減り続けていた。「何とかせねば」と同社が考えた戦略は、「大人の生徒」の開拓。そこで、30秒のテレビCMを作って今年3月末から地元テレビで流し始めるとともに、これとは別にフルバージョン版を用意し「You tube」にアップした。

ただしCM中に「生徒募集」などといったありふれた宣伝文句は一切ない。最後の数秒間に、こんな字幕が2回出るだけだ。「音楽は、言葉を超える。」 「TOSANDO music」 そんなに地味なCMなのに、音楽教室の生徒数はCM開始から先月末までの4カ月で1.5倍、大人の生徒は1.6倍に増えた。

経営コンサルタント・川村透氏は「ものの見方」を変えるには8つのポイントが大事と指摘する。①立地の悪さを「隠れ家」的に見せるような「発想の転換」 ②今までにない使い方を提案する「新しい価値」 ③優れた技術力をアピールする「高いビジョン」 ④現状をベースにせず出発点に戻って物事を考える「ゼロベース」

⑤物事を高所から俯瞰する「Bird's-eye」 ⑥3年先、5年先のスパンで物事を考える「タイムマシン」 ⑦もし制約がなかったらどう工夫ができるかを考える「IF~」の発想 ⑧物事をあえて楽天的に考える「視点移動」、である。地方に居ようと、大企業ではなくても、時代の注目を浴びることは不可能ではない ―― 人々から多くの共感を得た東山堂のCMは、ものの見方を変えることの大事さを教えている。

ただ……東山堂CMフルバージョン版を職場のパソコンで観るつもりなら、ハンカチを用意してからのほうがよいかもと、涙腺が脆い諸兄にはアドバイスしておこう。

「まったり・ほっこり」 No.683

暦の上ではもう秋 ―― なのに、街に出れば太陽がギラギラ照りつけ、熱気がモワッと肌にまとわりついて汗ベットリ。もうゲンナリである ―― の「ギラギラ・モワッ・ベットリ・ゲンナリ」など、日本語には擬音・擬態語による表現が多い。

理由がある。日本語は他国の言語に比べると音節数が非常に少ないからだ。欧米語や中国語は微妙な発音を駆使することで8000~数万の音節を持つのに対し、日本語の音節はアイウエオの50音、ガ行などの濁点、パ行の半濁点、「ニャ」などの拗音を合わせて112しかない。「この貧弱な音節数を補うために、日本語にはたくさんの擬音・擬態語が生まれてきた」と研究家・得猪外明氏。その結果、英語なら300語強しかない擬音・擬態語が、日本語では専門辞典によれば約2000語に及ぶ。

ただ、そんな日本語の擬音・擬態語にも「新陳代謝がある」と国語学者の山口仲美氏。山口氏自身が2000年の新聞・週刊誌から収集した擬音語・擬態語1210語と1974年刊行の天沼寧編『擬音語・擬態語辞典』を比較したところ、「ガタピシ」や「カランコロン」「ニョロリ」「チョコナン」など237語が消えた代わりに、「ピンポン」「バキューン」「ウルウル」「プッツン」など197語が登場しているそうだ。

そんな最近よく使われる擬態語の上位にランクされるのが、「ほっこり」と「まったり」だろうか。温かで寛いだ感じを表現する“癒し系擬態語”の代表格である。

ただし、共に元々は京都弁である「ほっこり」「まったり」の意味・用法が「最近、本来の姿と違ってきたことに違和感を覚える」と口にする生粋の京都人もいる。

「ほっこり」は本来「(仕事などが)大変だったから、疲れが少し残っている」の意味だ。「今日はほっこりしたから、お茶でも行こか?」というように使われた。「まったり」も、京都弁では、漫画『美味しんぼ』で使われてから広まった当初のように、「まろやかでコクがある」という本来は味を指す表現だ。それがNHKのテレビアニメ「おじゃる丸」のオープニング曲『詠人』で「まったり まったり まったりな/急がず焦らず 参ろうか」と歌われて以来、スローライフ系表現として用いられるようになった。「歌は世につれ」と言われるが、言葉の使われ方もまた然りである。

さて今年は11~12日を休めば9連休の夏休みを、まったり過ごした方も多かったのではないか。しかし今週から、実質的な下半期。気持ちのネジをシッカリ巻き直さねば。

「わたしのせいじゃない」? No.684

スウェーデンのレイフ・クリスチャンソン作『わたしのせいじゃない ―― せきにんについて』(岩崎書店刊)は、本文23ページの小さな絵本である。

テーマは「いじめ」。一人の生徒が泣いている。「何があったの?」とたぶん先生に聞かれたのだろう、クラスメートの14人が一人一人答えていく。

「はじまったときのこと みてないからどうしてそうなったのか ぼくは知らない」「ぼくはこわかった なにもできなかった みているだけだった」「おおぜいでやってたのよ ひとりではとめられなかった わたしのせいじゃないわ」「はじめたのは わたしじゃない ほかのみんなが たたきはじめたのよ わたしのせいじゃないわ」「たたいても わたしは へいきだった みんなたたいたんだもの わたしのせいじゃないわ」等々……。

14人が答え終わった次の17ページ目、真っ黒な紙面にただ1行だけ、白抜き文字でこう書かれている。「わたしのせいじゃない?」。

18ページ目以降も一切の文字はなく、モノクロの報道写真のページが続く。▽銃を持つ数人の前で、後ろ手に縛られ、目隠しされて座り込む捕虜らしき男 ▽ひしゃげた三輪車の傍らで、ボロ布を被せられている、たぶん子供らしい小さな死体 ▽工場の煙突から空を覆って吐き出される煤煙 ▽海上での核実験 ▽何かに怯えて泣く、痩せこけた子供 ▽休憩する兵士の横で、十字に縛られて横たわる死体……そんなショッキングな写真の数々を、一字の説明も加えずに載せたままで、この絵本は終わっている。

教室での「いじめ」を、「わたしのせいじゃない」からと見て見ぬフリしているのは、果たして子供たちだけなのだろうか? 世界の各地で起きている戦争や貧困や飢餓は、私たち自身が直接手を下し、引き起こしたわけではなくても、だからといって、「わたしのせいじゃない」と目を逸らしたり、無関心を決め込んだりしていてよいのか?―― 戦禍拡大が報じられる最近の中東情勢を見るにつけ、作者クリスチャンソンはこの絵本を、本当は子供より大人たちに読ませたくて書いたのではないかと思う。

1996年初版のこの絵本は現在28刷を重ねるロングセラー。ほとんどの公共図書館が所蔵しているから、出掛ける機会があったらついでに児童書コーナーを覗いてはどうか。「童話」は、しばしば大人たちにも、「何か忘れかけていませんか?」と問い掛ける。