コラム


 似て非なるもの  No.538
 野口英世の元々の名は「清作」である。野口は優れた細菌学者であったが、その一方で、借金を繰り返して遊郭に通うなどの悪癖があった。22歳のときに坪内逍遥の「当世書生気質」を読み、その中に登場する「野々口精作」なる人物の名前が自分によく似ており、しかも借金を重ねて自堕落な生活を送るという人物設定であったことから、自分がそのモデルであると邪推されるのを懸念して改名を決意、恩師から「英世」の名を与えられた。

 ファッションデザイナーの山本耀司氏は、新人デザイナー対象のファッションコンテスト「装苑賞」を受賞した際、同業の山本寛斎氏から相談を持ちかけられた。「ヨウちゃんは、これからはカタカナか平仮名で行ってよ。オレは漢字で行くからさ」。「同じ苗字で混同されるのを気にしたのだろう」と山本耀司氏は回想している。

 人名のように、似ていることで勘違いをされたり誤解されたりすることは確かにあろうが、名前に限らず、世の中には「似て非なるもの」はたくさんある。

 孔子はこの「似て非なるもの」を嫌悪し、弟子たちにこう言っていたそうだ。「私が口先のうまい人を憎むのは、その言葉が義に似ていて紛らわしいからです。言葉を上手に扱う人を憎むのは、間違っていてもまるで真実のように聞こえて紛らわしいからです。偽善者を憎むのは、本当に徳のある人に似ていて紛らわしいからです」

 古代ギリシャの作家、プルタルコスはエッセイ「似て非なる友について」で、友愛と追従の違いを述べている。「およそ追従者というものは、自分に関して何が善で何が悪であるかに気がつかなくさせる。ちょうど模造の金や金のまがい物がきらきらする光しかまねないように、追従者も友人のこころよさ楽しさだけをまねる」。そして「木につく虫がとくに甘い木につくように、名誉心の強い性格の人、有為の人、穏当な人ほど追従者を受け入れる」と指摘し、「牛にたかるアブのように追従者も耳の脇につく」、つまり「耳に心地良い話ばかり聞いているうちに目が曇り、判断が鈍り、気がついたときはすでに遅い」と警鐘を鳴らす。

 山本耀司氏は、創業した「ヨウジヤマモト」が破綻する1年前まで経営不振であることを知らなかった。「それまで僕には良い情報しか上がってきませんでした。裸の王様でした」と山本氏は当時を振り返る。

 経営者、組織のリーダーが敬遠すべきは「アブ」であり、本当に必要なのは、時に厳しい助言を一刺ししてくれる「ハチ」のような存在なのだとあらためて思う。

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