「三成に過ぎたるもの二つあり」と言われた戦国武将・石田三成。その一つは彦根市・佐和山城だった。豊臣政権五奉行の一人になった三成は、荒廃していた普通の山城を、五層もの天守がそびえる近代城郭に大改修した。実際、彦根市が先月発表した同遺跡の発掘調査では、ずいぶん大規模な内堀や城下町跡が見つかっている。 ただ佐和山城は、外観は立派でも内部はかなり質素な作りだったらしい。のちに関ケ原の戦いで家康側の小早川秀秋勢が攻め入ったところ、城内の壁は漆喰の施しがなく土壁のまま。調度にも逸品は見当たらず、あったのは秀吉から贈られた感謝状ぐらいだったことを驚いている様子が、江戸後期の随筆集「甲子夜話」に記されている。 関ケ原の戦いでは部下の裏切りにも遭った三成には、「中間管理職」としての悲哀が滲む逸話が多い。たとえば秀吉から北条氏攻略の一環として命じられた行田市・忍城の「水攻め」の失敗。三成は、敵方の十倍近い軍勢で攻めていたのに、採用した「水攻め」戦法が裏目に出て落とせず、以来「戦下手」の汚名を着せられることになった。 ところが歴史研究家・中井俊一郎氏によると、忍城の「水攻め」は三成の発案ではなく、強引な戦術をとることで圧倒的な力の差を天下に示そうとした秀吉の指示だったという。周囲に沼地・湿地が多い忍城を攻めるには不向きな作戦と分かっていた三成は何度も再考を促したが聞き入れられず、結局、作戦失敗の責めを負った。「現場を見ない上司の無理な命令に、必死で応える三成の姿――そこには現代にも通じる中間管理職の悲劇が透けて見える」と中井氏は雑誌「歴史と旅」1999年4月号に書いている。 「三成に過ぎたるもの」と言われたもう一つは、知将・島左近を家臣に迎えたことだ。家康に仕えたいと考えていた左近を翻意させるため、三成が示した待遇の破格さを聞いて驚く。三成が貰っていた所領四万石のうち二万石、つまり主君である自分と同等の条件を申し入れたのだ。そこまでの熱意にほだされ、左近は三成に臣従した。ただし後日談がある。三成の申し出に対し左近は結局、一万五千石の所領しか受け取らなかったのだ。主君が主君なら家臣も家臣、昔の日本人の「器量」の大きさが分かろう。 「残すは盗なり。使い過ごして借銭するは愚人なり」の格言もまた三成は残した。予算は残すことなく使い切れ。しかし、使い過ぎて足らなくするのは愚か者――等々、知るほどに「中間管理職・石田三成」の悲哀は現代企業社会にも通じそうではないか。 |
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