中国・宗時代の詩人・戴益による、「探春」と題する一首がある。「尽日春を尋ねて春を見ず/杖藜踏破す幾重の雲/帰来試みに梅梢を把って看れば/春は枝頭に在って已に十分」(一日中、春を探して歩いたが見つからなかった。藜(あかざ)=成長すると木質化する丈夫な草=の杖をつき、重なる雲の下を歩き尽くした。家に帰り、試しに庭の梅の枝を手にとって見ると、花芽が膨らんでおり、春の訪れを十分に感じた) 戴益は、生没年さえ分かっていないばかりか、確認されている詩はこの一編だけという詩人。にもかかわらず実に1000年後の今日までその名を残しているのは、中国版「青い鳥」とも言えるこの詩が、「大切な物というのは、気付きにくいけれど案外身近にあるもの」という、禅の境地に通じる深い意味合いを含んでいるからだろう。 何が人の心を豊かにするのかを突き詰めて考えると、それは案外身近に、場合によっては自分の心の中にあるものなのだ、という教えは、やはり中国・春秋時代の思想家・老子の「道徳経」三十三章の一節「知足者富」(足るを知る者は富む=満足することを知っている者が、本当に豊かな人間なのだ)に通じる。そこで――。 あるIT企業経営者はブログで「人間は欲深い生き物だと思う。経営者は特にそうだ。売り上げが上がっても、もっと上げたいと考える。しかし、ある時『皆、足るを知らないから規模を拡大して失敗する』と教えられ、この言葉が自分を振り返るきっかけになった」と書いていた。別の若い経営者も「ビジネスの世界では一つ一つステージを上げていくことが大切。でも疲れてしまいます。いまいる自分の位置でもいいじゃないですか」と綴っている。不況が、長引くと言うより残念ながら定着してしまった感の日本経済下で、そんなふうに考える経営者が増えておかしくないのかも知れない。 しかし。老子の「知足者富」は、その後に「強行者有志」(強(つと)めて行う者は志あり=自分を励ましながら行動する者が、その志すところを得る)と続くことで成り立つ。 バンクーバー冬季五輪フィギュアスケートで銀メダルに泣いた浅田真央選手は「嬉しさ半分、悔しさ半分」と言った。「時間が経つにつれて悔しさが大きくなってくる」と語ったのはスピードスケート男子500m銅メダルの加藤条治選手だ。ともに、メダルを手にできたことを喜びながらも、「金」を獲れなかった悔しさを口にした。 やはり、より高い志を掲げ、強(つと)めて行い励んでこそ、「足るを知る」の真髄ではないのか。 |
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