コラム


 「坐忘」の境地  No.432
 24日月曜日午後のテレビ中継。「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせながら、しかし中京大中京(愛知)を応援する地元ファンの多くは最終回、日本文理(新潟)の猛追撃に、「逆転負け」という最悪シーンをも一瞬、思い描いたのではなかろうか。

 第91回夏の高校野球の決勝戦は、史上に残る名試合になった。中京大中京に初回先制された日本文理は、2回、3回の得点で同点に追いつき健闘。しかし6回に中京大中京の打線が爆発。10−4の6点差で迎えた最終回も2アウト走者なしまで進んだ時点では、試合はこのまま終わるだろうとほとんどの観客が思っていたはずだ。ところが、ボールカウント2ストライク3ボール後の「最後の一球」のつもりが外れて走者を出したことが、「野球はツーアウトから」を象徴する大混戦を招く原因になった。

 勝利や利益など「欲」が目に入った時、人はしばしば油断する。「利を見て而(しこう)し、其の真を忘る」――中国「荘子」山木篇に載る以下の話をご存知の方も多かろう。荘子が栗の森で狩りをしていると、近くの枝に止まる一羽のカササギを見つけた。弓に矢をつがえ狙いを定めた荘子は、しかしそのカササギが微動だにしないのを不思議に思ってよく見ると、カササギは葉陰にいるカマキリを捕ろうと狙っていることに気が付いた。さらにそのカマキリがまた、少し先で鳴くセミを狙ってじっと動かないことにも。

 カササギもカマキリも、目の前の獲物に心を奪われ、自分に迫っている危険への注意が散漫になっている。「利を追う者は害を招くものだな」と呟き、荘子は狩りを止めてその場を立ち去った――というだけでこの話は終わらない。今度は森を出ようとした荘子が、先刻来の一部始終を木陰から見ていた森の番人に、栗泥棒の疑いで呼び止められたのだ。自分も置かれた状況に気付かなかったことを恥じた荘子は、それから3カ月部屋に閉じ篭り、「万事あるがままに任せて作為を施さない。失敗しても気に病まず、成功しても得意がらないこと」という「坐忘の境地」に至ったのだという。

 勝海舟は事あるごとに「坐忘の精神」を口にした。「胸中闊然として一物を留めざる境地に至って初めて、万事万境に応じて横縦自在の判断が出来る。心を明鏡止水のごとく磨ぎ澄ましておきさえすれば、いついかなる事変が襲うて来てもそれに処する方法は自然と胸に浮かんで来る。いはゆる物来たりて順応する」(「氷川清話」)

 荘子の時代から二千余年。にもかかわらず、人間なかなか「坐忘の境地」に至れない。

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