コラム


 老舗の教え  No.429
 3月に発刊されたねじめ正一氏の著書「商人(あきんど)」(集英社刊)は江戸日本橋の鰹節問屋、伊勢屋が舞台だ。勢州(現三重県)四日市で生まれた初代伊兵衛が12歳で江戸に上り、さまざまな経験をした後、20歳で始めたのが鰹節・塩干類の商いだった。初代は生まれつきの才覚と勤勉さで伊勢屋を大店に成長させるも、志半ばで死去。さらに2代目を継いだ兄は商売と家の重圧に押しつぶされて狂死してしまう。それまで兄の補佐的な存在として気楽に構えていた弟、伊之助も多くの壁にぶつかるが、次第に商人としての気概が芽生え、3代目として店を再興させるという物語である。

 伊勢屋とは現在の「株式会社にんべん」のこと。ねじめ氏はにんべんに伝わる3代目伊兵衛(伊之助)の日記をベースに「商人」を書き上げた。

 この本の中で印象的なのが、伊之助の妻、ための発案で始めた削り節の実演販売の件だ。それまで1本ずつでしか売らなかった鰹節を店先で削り分け、安く提供したことで、貧しい町民たちが喜んで買いに来るようになった。江戸一番の高級品を扱う御用商人から一般消費者を重視する経営方針の転換だ。こんなことをしたら店の格が落ちると渋面の番頭たちに対して、伊之助は語る。「商いは、人の喜ぶ顔を見るためにするものである。人が喜び、喜ぶ人の顔を見ることで自分も喜ぶ。それが商いの醍醐味である。店の格とは、虚心坦懐に客の笑顔を喜ぶ気持ちの深さのことだ」と。

 にんべんは創業310年の老舗。他方、始まりは1300年前に遡るという石川県小松市粟津温泉にある旅館「法師」にも代々引き継がれた言葉がある。「みずからまなべ」。第46代当主、法師善五郎氏によれば、これには「自ら学べ」と「水から学べ」の二つの意味があるという。前者は字の如く、後者は「水五訓」にその教えを見る。▽常に自己の進路を求めて止まらざるは水なり▽障害にあいて激しくその勢いを百倍し得るは水なり▽自ら活動して他を動かしむるは水なり▽自ら潔うして他の汚れを洗い、清濁併せて容るる量あるは水なり▽洋々として大洋を充たし、発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し、凝ては玲瓏たる鏡となるも、其性を失わざるは水なり

 「水五訓」の提唱者は諸説あるが、環境に柔軟に対応しながらも、その本質は決して変わることがない水に企業の有り様をなぞらえた、時代を超えた経営哲学と言えよう。水の如く変化しながら、「流れ」の先に常に客の笑顔を見てきたからこそ、老舗の今がある。

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