コラム


「違和感」 No.314
 これが「よそ者の感覚」というものなのだろうかと、反省した。22日投票の統一地方選・長崎市長選挙で、凶弾に倒れた伊藤一長市長の後継者として出馬した娘婿・横尾誠氏を、やはり直前に補充立候補した市統計課長・田上富久氏が、激戦を制して当選した。その結果を、当初は「意外」と受け止めたことをだ。

 同情票が集まる横尾氏が圧倒的に有利、と思っていた。たしかに田上・横尾両氏の得票差は953票。「推定伊藤票」が多かったとみられる期日前投票の再投票が仮に認められたなら、別の結果も考えられる特異な選挙だった。しかし、結果はあくまで結果。

 今回の長崎市長選のキーワードは結局、「違和感」という言葉に集約されるのではあるまいか。「市役所随一のアイディアマン」という田上氏の評価も、有権者は当選後の報道で知ったことで、だから田上氏に一票を投じたわけではなかったろう。一方の横尾氏については、「人となり」を知る時間さえなかったはずだ。ただ、あったのは、「市長職を世襲にしてよいのだろうか」「ジャーナリストと政治家は違うのではないか」「平和問題などがある長崎市長を、よそ者に務まるのか」という、有権者が抱いた、どことない「違和感」。そんな「違和感」が、投票結果に表れたように思える。

 「市民のみなさま、伊藤一長はこの程度の存在でしたか? これでは浮かばれません!」と敗戦後、泣きながら詰(なじ)った前市長の娘の悔しさは、事ここに至る経緯と彼女の心労を察すれば余りあるから、何も言うまい。ただ、戦い終えてそうした言葉が出てくる元にある何かの「違和感」を、地元有権者は日頃感じていたのかも知れない。

 ささいな「違和感」を大事にせよ、と教えられた気がする。社会や会社の中で、とりあえず自分に大きく関わってこない事柄だからとか、それを口にすれば自分の行動や責任に跳ね返ってきそうだからというので、内心の「違和感」を心の奥に閉じ込めたり気が付かないふりをしていることが、私たちの日常にもありはしないだろうか。

 試合前、たとえば腰に違和感を覚えたから、出場を断念する――スポーツ界でよく聞く話だ。「違和感程度で休むなよ」と思うのはアマチュアだ。「違和感」を抑え、無理して闘うことが、どれほど危険で重大な結果をもたらすかの怖さを、一流選手なら知っているからこそ、「違和感」を大事に考える。私たちも、社会や会社の中で、内心抱いている「違和感」をちゃんと口にし、何かを変えていく勇気を持つべきではないのか。

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