コラム


本間ゴルフの破たん No.219
 「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」。江戸時代、俗謡に謳われるほどの豪商として名を轟かせた酒田の本間家。米相場の投機で手にした多額の金を土地に替え、やがて1000万坪以上を保有する日本一の大地主になった。家業の北前船交易や大名貸し、商人貸しなどの金融業でも成功し巨万の財を成した。その一方で、一商人の枠を超え、庄内藩への多額の献金、砂防林の植林、新田開発、寺社の寄進など地域発展のために私財を惜しみなく投じた。そうした姿に庶民は憧れの念を抱いた。

 今日まで10代以上続く本間家は地主のほか、商業、金融を業として酒田市の繁栄とともに歩んできた。巨額の献金も続け、市の税金の半分を負担したこともあった。本間家旧本邸、本間美術館など観光スポットの多くは本間家の資金で作られたものだ。

 6月20日、負債305億円を抱えて民事再生法を申請した本間ゴルフの家系は、この本間家の流れを汲む。金庫番をしていた本間吉郎が横浜に移り住み、その子孫が始めたゴルフ練習場が同社の礎。傍系会社でゴルフクラブの製造を本格化したことによって上昇気流に乗った。1982年には、戦後4番目の大火に見舞われて特定不況地域に指定されていた本間家ゆかりの酒田に、世界最大級の15万坪のゴルフクラブ工場を設立。わずか4、5年で従業員900人規模まで拡大させた。

 ピークは97年3月期。ゴルフクラブ販売の直営店網を国内に整備したほか中国、韓国などアジアにもマーケットを拡大、さらに2つのゴルフ場の経営も手がけ、売上高341億4600万円をあげていた。

 その後はしかし、消費不振や競合激化などから業況低迷に悩まされ続けた。減収の一途で、多額の赤字を内包。設備投資に伴う借入れも重荷となった。さらに2001年、二重価格表示により公正取引委員会から排除命令を受け、また消費税法違反容疑による起訴で、対外信用も低下。そして、ついに自主再建を断念した。

 本間家には、三代目・光丘による「七か条」をはじめ、いくつかの家訓が遺(のこ)る。同社の酒田進出も「故郷のために最善を尽くせ」の教えに沿ったものだったが、他方で、「投機事業をしてはならない」の戒めに背き北海道の土地を購入したことを咎められ、先祖の吉郎氏は本間家を追われた。そうした先人の無念さが、ついつい無理な事業拡大への野望を駆り立てる背景にあったのだとしたら、人間の業とは御し難いものだと思う。

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