コラム


 見切られる No.161
 お茶の間(という言葉もいまや死語化しているが)とテレビの距離が縮まったためか、いわゆる「ギョーカイ用語」が最近、日常語として普通に使われ、耳にすることが多くなった。たとえば「前フリ」=本題に入る前に、話題をその方向に向けること、「ダメ出し」=演出家などが演技や技術関係について問題点を指摘すること、「ケツカッチン」=次のスケジュールが決まっていて、時間を延ばせないこと、等々。

 そんな、最近使われ始めた業界用語の1つに「見切れる」がある。テレビの場合なら、本来映ってはならない周囲のスタッフや、機材やセットの建て付けなどの「舞台裏」が、何かの手違いで突然画面に映ってしまうこと。転じて最近は、グループ写真を撮るとき、「××君、見切れてるよ」などと、わざとブラックジョーク的な言い方で使われたりもするようだから、それはあまり感心しないが。

 その「見切れる」と、似てはいるがまったく別の意味の「見切る」という表現も、最近使われ始めている。昔から言われる「見限る」や「見捨てる」とも、また少し違う。たとえば野球中継で、打者が際どいコースのボールを微動だにせず見送った時、解説者いわく「ここは、ストライクゾーンからボールに逃げるカーブを投げてくるだろうと、彼は完全に見切っていましたね」。つまり「読み切る」に近い「見切る」。

 もともとは剣道の「間合いを、見切る」から来ているらしい。相手との間に最低必要限の距離をとっていれば、絶対に斬られることはない、の意味。それが近頃は、ルアーフィッシングなどで「魚に見切られたルアーは、早く交換しなきゃダメだ」などと使われたりする。「疑似餌だな」と魚に「見破られる」の意味である。

 見る――。普段は何気なく使っているが、改めて考えると、「みる」は、実に幅広く、かつ奥行きの深い意味を持つ。単に「物を見る」だけでなく、「映画を観る」「手相をみる」「病気かどうかを診る」「倒れた母を看る」「湯加減をみる」「味をみる」「試してみる」「答案をみる」「運勢をみる」「政(まつりごと)をみる」――こう並べて「みる」と、その意味合いが、奥行きの深い部分で微妙に違うことに気付く。

 企業では、新年度からの新組織、新人事が、そろそろ根付き始めた頃。しかし大事なのは、これからだ。新入社員も新管理職も新経営陣も、気の緩みから、自分の馬脚が「見切れ」ていることに気付かず、周囲にその「器」を「見切られ」ないよう、心しなければ。

コラムバックナンバー

What's New
トップ
会社概要
営業商品案内
コラム
大型倒産
繊維倒産集計